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プロフィール

2005年 1月 アメリカ、ロスアンジェルス人生修業
2005年 9月 ハワイ人生修業
2005年12月 再びロスアンジェルス人生修業
2006年 2月 山形県で蕎麦屋開業< 2007年 1月 蕎麦屋廃業(倒産)
2007年 3月 個人カウンセリング開始
2017年 8月 『話し相手.jp』設立
2019年 1月 総カウンセリング数1250件。
         (カウンセリングのみの実績)
         実績6000件
         (大人から子供まで、話し相手、カウンセリング含む)

自叙伝

《プロローグ》
 私は現在、『話し相手.jp』の運営をさせていただいています。
 当初、私が一人で10年ほどサービスの提供をさせていただいていましたが、この度、サイト内容も一新いたしまして、チームでサービスを展開させていただくこととなりました。
当サービスは、人生のあらゆる悩み、性の悩み、生活の悩み、学業の悩み、結婚の悩み、夫婦間の悩み、子育ての悩み、愚痴、相談事、心の問題、鬱、不登校、引きこもり、ニート、自慢話、嬉しかった話、恋愛話など、どのような悩みや、愚痴や相談事をもお聴きするためにはじめました。

このように現在は人のお話を聴かせていただいて、人生の様々な悩みを抱えておられる方々のお役にたちたいと考えて日々歩んでおります。
しかしこのような私もかつて、中学二年生の時に『不登校』となりました。それから三年程引きこもり、鬱も経験し筆舌には表しがたい苦しい毎日をすごしてまいりました。

《幼少期~小学校卒業》
 私の出身地は関西で、滋賀県大津市で生まれ、すぐに野洲郡野洲町に移り、八歳からは兵庫県加古川市で育ちました。父は公務員で母は専業主婦でした。兄弟はなく、一人っ子でした。生活面、特に経済的には父の仕事が安定しておりましたので、裕福とはいきませんが、不自由でもありませんでした。私が八歳になるころまでは、どこにでもあるような平凡な家庭であったと思います。特別な問題もなかったので、そういう意味では『幸せな家庭』であったと言えるかもしれません。

 しかし、私が八歳ごろに父が『うつ病』を発症しました。
父は滋賀県から兵庫県へと単身赴任をすることとなりました。赴任をしてまもなく父の上司より母に電話がありました。『最近仕事を休みがちだ。様子を見に行ったがどうも元気がない。病院に行った方がいいかもしれない・・・』まもなく父は『うつ病』と診断されました。父をこのまま単身赴任させておくわけにはいかないということで、私と母も兵庫県加古川市に移り住む事になりました。

私の記憶では、病になる前の父はよく私と遊んでくれました。野球、サッカー、チャンバラごっこ、プロレスごっこ、ラジコン作りなどなど・・・。しかし病になってからの父は、ほとんどの時間、お酒を飲んで暴れているか、寝ているかのどちらかでした。うつ病の症状は、強いうつ気分、興味や喜びの喪失、食欲の障害、睡眠の障害、精神運動の障害(制止または焦燥)、疲れやすさ、気力の減退、強い罪責感、思考力や集中力の低下、死への思いなどがあります。特に父は、強い罪責感や死への思いなどが強かったように思います。
そのような中、父は病の苦しみから逃れるために次第に飲酒量が増えていきました。毎晩のようにお酒を飲んでは、暴れるという状態になっていきました。母は、そのような父におろおろとして泣くばかりでした。このような状況の中で、私はいつもビクビクと怯えながらも、『父をなだめて、母を励ます』いわゆる『良い子』でした。
父が何度か暴れた中で最も私の記憶に残っていることは、『包丁』を投げられたことです。なぜその時に父が暴れ出したのかは覚えていませんが、例のごとくお酒を飲んで暴れ出したのです。私が止めた所、父は私に向かって『包丁』を投げたのです。幸い私に当たる事はなかったのですが、すぐ横の壁に包丁は突き刺さっていました・・・。
しかし、このような家庭の状況からは想像も出来ないほど、私の学校での成績は優秀でした。私は第二次ベビーブームで、小学校卒業時の同級生は500人程でしたが、成績は上から20番くらいだったのです。ある種、異常な家庭環境であるにもかかわらず、私は、家でも良い子、学校でも良い子だったのです。このあたりの『無理』が中学校での不登校につながっていったのだと思います。

《中学校~不登校~高校中退》
中学校に上がるとまもなく、父がまた転勤となりました。うつ病が癒されたわけではないので、今度は最初から母も私も共に転勤先の兵庫県尼崎市に行く事となりました。私の記憶では、この時の『転校』は私にとりまして、とても憂鬱なものでした。前述の通り、学校での成績も良かったので、私自身楽しく通学していました。仲間と離れる事はとても悲しい事でした。『転校したくない!!』と泣いて、父、母に懇願した事を覚えています。
そのような中での転校でしたが、転校先の中学校(尼崎市立常陽中学校)のクラスはとても楽しいものでした。担任の先生(K先生)にも恵まれ、新天地では順調な滑り出しでした。相変わらず成績も良く、部活はサッカーに燃えていました。父は変わらず、『うつ』と『躁』を繰り返していましたので、仕事に行くこともあれば寝ている事も多く、お酒を飲んで暴れる事も多かったです。

2年生になってクラス替えをしてから、私の『葛藤』がはじまりました。最初、クラスメートから単純な『イジメ』にあいました。今になって、冷静に自分の事を分析してみますと、小学生の頃はケンカも強く、いじめられた経験などなかった私は、この中学での『イジメ』に対して、『立ち向かう事が出来なかったショック』が大きかったようです。もし、立ち向かう事が出来ればそれは『イジメ』ではなく単純に『ケンカ』として私の記憶に残るのでしょうが、立ち向かえなかった事で『いじめられた』、『カッコ悪い』、『男として情けない』というように自分を責めたのです。もちろん、『無意識に』自分を責めたのです。先生などに素直に『いじめられた』と打ち明ける事ができれば、それ程自分の『心』にストレスをかける事もなかったのだと思うのですが、『いじめられてはならない』、『いじめられるのはカッコ悪い』、『敢然と勇気を持って戦わなければならない』といった、『認知のゆがみ』が私の中にありました。この『ゆがみ』によって、内なる自分自身が、自分自身を責め立てたのでした。つまり、クラスメートから『いじめられた』事にもまして、私が私をもっとも『いじめた』のです。まもなく私は不登校気味となり、2年生の2学期から完全不登校となりました。

不登校は卒業するまで続きました。ただ、あまり私の中で不登校期間中の記憶はありません。あまりに辛く、苦しい葛藤であったため、『自ら記憶を消した』のだと思います。また、完全不登校とは言いつつも、K先生が私の事を3年間気にかけて下さって、よく家を訪問して下さいました。その先生が『何とかこれだけは』と言って下さった行事などには出席していました。
『消えている記憶』の中でなんとか覚えている事をいくつか述べてみたいと思います。

不登校当初は、朝、担任の先生(K先生とは別の方)が迎えに来てくれました。ただ、それが非常にプレッシャーでした。母もなんとか私を学校に行かせようとしましたし、もちろん父も同じでしたので、『朝』が来るのが本当に憂鬱でした。学校に行けない事で将来に対する不安が募り、しかしどうしても行けないわけですからそこでまた自分を責めるわけです。不登校児に共通すると思いますが、『毎朝の葛藤』というのはものすごくエネルギーを使います。『行かなければ』でも『行けない』、しかし『行かなければ』いや『行けない』・・・。なんとか母に『今日も行けない』ということを学校に伝えてもらって、少し安心してまた眠るといった感じでした。お昼ごろに起きてきて、『笑っていいとも』(森田一義アワー 笑っていいとも! 放送期間1982年10月4日~2014年3月31日)を見て、午後になると『明日はどうしよう・・・』と、また不安になります。夕方、K先生方が訪問に来て下さったりしました。時には私の仲の良かった友達を連れてきてくれたり・・・。夜はなかなか寝付けないので遅くまで起きて、また朝が来る・・・。基本的にはこのような生活のくり返しです。いつも起きている時は『葛藤』していますから、本人の感じる『1日』という物は早いものです。本当にあっという間に1日が過ぎていきます。そしてあっという間に各学期も終わります。

不登校中でも時々母と外に出たりしました。車で出かけた時などは同じ中学校の生徒らしき人を発見すると、窓から見えないように隠れていました。家の電話には一切出ませんでした。携帯電話などない時代でしたので、外出中の母から自宅の固定電話に電話が掛かってくる時は、2度コールをしてもらってから1度切って、もう1度かけ直す、などのルールを決めていました。私がだいたいお昼ごろに起きてくるものですから、家族との交流が途切れるわけです。そのため母は、毎日、私に短い手紙を書いてくれていました。
『今日はどこそこに行っています。食事はこれこれを食べててね。夕食は何がいいですか?後で電話します・・・』etc. 今思いますと、毎日の手紙を私は楽しみにしていました。もちろん当時はそのような事を意識してはいませんが、やはり学校に行って当たり前と私自身が思っていますから、学校に行けない自分を責めています。母もそんな私を責めているんじゃないのかと思っていますから、母からの『責めない手紙』は私の心を安心させてくれました。この頃、母は、すでにカウンセリングを学んでいましたので、私とのコミュニケーションを絶やさないようにアドバイスを受けていたようです。『こうしなさい。あーしなさい』ではなく、ただ、私との『純粋なコミュニケーション』をとる努力をしていたのです。
またこの頃、何人かのカウンセラーや、精神科の先生などに『カウンセリング』をしていただいたのですが、『全く』私の心には響きませんでした。むしろ、『不快感』すら覚えました。『結局誰にも僕の気持ちは分かってもらえない・・・』。この時の気持ちが、現在の『働き』の元になっています。不登校、引きこもり、心の病等は、身をもってその事を体験した者にしか『わからない世界』であると思っています。
高校にだけは進学したいと考えていました。元々、小学生の頃は成績が良かったというプライドもあったと思います。不登校真っ只中で、自宅での受験勉強がはじまりました。K先生が毎日勉強を教えに来て下さいました。理科が専門の先生でしたが、数学、英語もみてくださいました。そのおかげもありなんとか、私立報徳学園高等学校に進学する事ができました。葛藤の中で、何も解決することなく終わった中学生時代でした。

今、思い返しますと、やはりK先生の存在は大変大きかったと思います。前述のような『引きこもり生活』ですので、何日間も誰とも接する事なく、話す事もなく、ただ、ただ、悶々と過ごす日々が続くわけです。私自身はおろか、母も焦りと葛藤で精神的に疲れてきます。そんな家庭の中に、家族とは別の『第三者の風』を吹き込んで下さって、人と『話す』事が出来たという事は、私達家族を『世間から孤立した状態』から救ってくださいました。私自身、K先生の『訪問』を楽しみにしていました。何を話したかはあまり覚えていませんが、好きだった女の子の話、好きな音楽の話し、高校への希望の話し・・・などなど、先生は私を責めることもなく、いつも明るく、優しく接して下さいました。母も先生と『話す』事を楽しみにしていたようです。当時同じ学年で不登校をしている同級生が、私以外にも何名かいましたので『私の家庭だけではない』といったような事を聞きつつ、励まされていたのです。『引きこもり』の完全な解決には至りませんでしたが、なんとか私が留年もせずに中学校を卒業でき(実際に、義務教育ですが留年という話もありました)、高校にまで進学できたことは、K先生の存在なくしてはありえなかった事と言えます。

しかし、なんとか高校に進学はしたものの、ほとんど中学校に通う事が出来なかった者が、急に高校に通う事など出来るはずがありません。またすぐに不登校気味になり、2学期からは完全に不登校になりました。私の中で『自主退学をする』という決断はとても早いものでした。中学生の頃から不登校を経験し、もう不登校という『中途半端な状態』に疲れ果てていたというのが正直な気持ちです。『高校を辞める』と決めた時のなんとも言えない爽快な気持ちを今も鮮明に覚えています。

《プータロー~大学進学~転機》
高校を辞めた私は、ある意味『水を得た魚』のようでした。今まで、『学校に行けない』という『しがらみ』に囚われ、悶々としていたのですが、その事から解放され『行動的』になりました。『引きこもりのイメージ』と矛盾しているようにも思われるかもしれませんが、元々、外向的な気質ですので、家で悶々と過ごす事にも嫌気がさしていました。『学校に行けない』という事は、その事実によって『知り合いに会うかもしれない』という恐怖から外出できなくなります。また、学校に行けない事で、当然ながら、常に『悶々』と悩みます。しかし、『自主退学』したことによって、『学校に通う必要がなくなった』ので、『堂々と』外出できるようになったのです。この事実は私にとってとても大きな事であったと思います。余談ですが、もしあの時点で、『休学』などの措置で一時しのぎをしたとしましても、『いつかは戻らなければ』というプレッシャーから、私の『引きこもり』が長引いたのではないかと思われます。『引きこもり』が長引けば、それだけ家族も本人も傷を深めます。ですので、完全な解決にはなりませんが『引きこもり』という事実からの一時的な解放を考えた場合に『退学』という道を選ぶ事も大変重要になってくると思います。ただ、これはあくまで『形式的』な『一時しのぎ』にすぎない事を覚えておいていただければと思います。この時点で私の『引きこもり』が解決したとは、私は考えておりません。すなわち『精神的引きこもり』は継続したままなのです・・・。

その後私は、3年程いわゆる『プータロー』生活を経験します。中学生時代の『引きこもり』を取り戻すかのごとく、家にも帰らず遊びまわる毎日でした。髪は金髪、バイクを乗り回し、彼女や、友達の家を転々としていました。アルバイトもしていましたので適度なお金もありました。小学生時代の『良い子』、中学生時代の『引きこもり』、そういったすべてを『払拭する』と言いますか、『見ないようにする』と言いますか、この頃が最も私の人生で好き放題させてもらったような気がします。ただ、両親にしてみますと、引きこもって家で悶々としている我が子を見る事も辛いでしょうが、我が子がどこで何をしているのかもわからない、生きているのか死んでいるのかもわからないという事も非常に辛い事であったと思います。

そのような私がある時もう一度『高校』に行こうと思う出来ごとがありました。それは、当時仲の良かった友人に『漢字』が読めない事を馬鹿にされたことがきっかけでした。元々、『成績が良かった』というプライドがあった私は、『漢字が読めない』事で馬鹿にされる事に耐えられなかったのです。定時制高校に行く事にしました。ただ、この事も今、冷静に分析してみますと、やはり本来的に私の『自信のなさ』からくるものであると思います。『セルフイメージ』がとても低いのです。この場合、状況は表向き『プータロー』から『高校生』になるわけですから、ある意味『更生した』とか、『心を入れ替えた』などとも考えられます。しかしポイントは、『漢字を読めない事を馬鹿にされた』という『外面的な事実』だけに振り回されて、『行動』しているということです。私が、私自身を受け入れて、『自己受容』していれば、『漢字が読めても、読めなくてもOK』その事と、私の存在価値とはなんの関係もないと思えるのです。そのように思える事で、自己受容する事で、『人』や『状況』、『他人の意見』、『外面的な事実』に振り回されるのではなく、『本来の自分自身』、『最も私が私らしく生きる』事が出来るようになるのです。いったい自分は何をしたいのか?自分という存在は何者なのか?そのあたりをじっくりと『自分自身』と対話していくのです。そうしますと、人生という物は一気に『良き方向』に導かれていくものです。
私の場合はこの『セルイメージ』の低さ、から『認知のゆがみ』を作りだし、『小学生時代』に『良い子』を演じ続けたのです。『良い子』を演じ続けられなくなった私は、中学生で『引きこもり』ます。自分を責めきれなくなって、『プータロー』となって外で発散し、少し心のエネルギーを蓄えて、また『セルフイメージ』の低さと、『認知のゆがみ』により『大切な人生の向かうべき方向』を決定するのです。このような『自分自身の心のからくり』がわかるようになったのは、ごく最近です。当時は全く解らず、ただ、ただ、『自分の中のもう一人の自分』に乗っ取られていたような感じです。『自分が何者か』が解らないと言いますか、『自分自身を自分でコントロールできていない』といった感じです。つまりもう一人の自分とうまく『対話』できていないのです。多くの書物を読みあさり、後述します『人生の修業期間』を経た今、ようやく少しずつ見えてきた世界であると言えます。

兵庫県西宮市にある定時制高校、西宮市立西宮西高等学校(現、兵庫県立西宮香風高等学校)に4年間通いました。この間、トラックの運転手をしていました。昼間は4tダンプカーの運転手を仕事として、夜は定時制高校に通いました。このように書きますと、『更生したOr立ち直った苦学生』のイメージですが、実際はかなりちがいます。仕事には真面目?!に通っていましたが、学校は毎年留年ギリギリでした。出席日数ギリギリで、ただ『通っていただけ』でした。19歳から入学したのですが、ほとんどが現役(16歳)の方々でしたので、年令が周りの方々より上と言う事もあって、かなり傲慢にふるまっていました。尼崎市に住みつつ、車で隣の市である西宮市まで通っていました。大半が地元、西宮市の方々ですので、私の素性を知る方もいないため、皆私の事を『尼崎で何かとんでもなく悪をやっていた、得体の知れない人』といったイメージをもっていたようで、皆が怖がってくれた?!ため、ある種快適な『学校生活』でした。 仕事もしていましたので、学校をサボることも多く、毎年留年ギリギリでしたが、友人や先生方の助けを借りながらなんとか卒業をさせていただき、大学に進学までしました。
大学進学も、今にして思えば完全に『セルフイメージ』の低さに影響されていたと思います。定時制高校の4年生になった頃、私の中では、トラックを買って独立しようと思っていました。しかし、当時知人より『せっかくだから大学に行ったら?!』と言われたのです。最初、私の印象は『はっ?大学?』といった感じでした。なぜなら、16歳で高校を自主退学してから、この時点で21歳になっていましたが、この6年間、自分が『引きこもった』という事実はなかったように、見ないように生活をしてきました。また『勉強が出来た』という自分をも『消した』ように生活をしていました。しかし、消したつもりの『自分』が呼び起こされたのでした。『勉強ができた』というプライドに『乗っ取られ』、ここでも『セルフイメージ』の低さに『支配』され、『我を見失って』人生の方向を決断するのです。私は大学受験を決意しました。 誤解なきようにと思うのですが、もちろん、大学に進学しようと思うこと事態は決して悪い事ではありません。いや、素晴らしい事であるとも言えます。事実、このころの私はたくさんの方に『褒めて』いただきました。ただ、何度も申しますように『決断の根本的な理由』が問題なのです。私は、『よし、大学に行って皆を見返してやろう』と思っていました。そう、思う事も悪い事ではないかもしれません。しかしこれでは、いわゆる『劣等感人生』なのです。劣等感をバネにしてがんばるのです。決して悪い事ではないのですが、はばからず申し上げますと、『豊かな人生』とは言えないと思うのです。疲れる生き方です。いつも勝ち、負けに左右される生き方です。今ダメだから、がんばって良くなろうする、マイナスからプラスへの生き方です。この生き方は常に『競争』の生き方です。どこかで疲れます。疲れた結果引きこもりや、うつ等の症状が自分に現れるか、誰かを責めます。家族、両親、子ども、同僚、部下、などなど・・・。どこかで誰かが病むのです。ですから私は、『プラスからプラスへの人生観』をお勧めします。今もOK!だからもっと良くなる。『今を最善の時』と信じて生きるのです。すべては『宝』。すべては『最善』なのです。
この後、私は大学に進学するのですが、最終的には再度、影を潜めていた『引きこもりの根本的な部分』が再発?!します。なぜか?ここまで読んでいただいた方にはおわかりかと思うのですが、結局私は同じ事を人生で『繰り返して』いるのです。良い子を演じて、引きこもり、少し休憩(プータロー時代)をはさんでまた良い子を演じ(定時制高校時代、大学時代)また引きこもる・・・。『自己受容出来ない』生き方、『自分を否定する』生き方、『自分でない何者かになろうとする』生き方、いろいろな言い方ができると思いますが、要するに『マイナスからプラスへの』生き方では人は疲れ切ってしまいます。

 しかしそういった『内面のゆがみ』とは別に表向きには、平成8年4月、23歳で近畿大学に入学することが出来ました。さらには、大学と並行して専門学校にも通い『公認会計士』を目指すこととなりました。この頃の私は、人生でとりこぼしたすべてを清算しようとしていたように思います。『引きこもり』、『不登校』という人生の『汚点』をすべて消してしまおうと考えていたように思います。前述しましたように、これは完全に『マイナスからプラス』への生き方です。自分の23年間の人生をすべて『否定』する生き方なのです。とても辛い生き方ではないでしょうか。ご存知の方も多いと思いますが、『公認会計士』という国家資格はかなりの難関試験です。中学生以来、まともに勉強していない人間が、急に猛勉強を始めても力尽きるのは当然だと思います。どこか『無理』のある生き方です。よく言えば『志が高い』などと言えるかもしれませんが、あまりにギャップがありすぎるのです。『セルフイメージ』が低いため、一気に上りつめようとするのです。『自分の位置』、『自分の存在』を認められないのです。
そこにとどまって、セルフイメージの低い自分自身を冷静に『見つめる』必要があるのです。失敗をする自分、誇大妄想をする自分、引きこもった自分、不登校をした自分、心病んだ自分・・・。とても恥ずかしくて人に言えないような『自分自身』を、じっくりと見つめ、そんな自分と対話し、これも自分なんだ、いやこれが自分なんだと『自己受容』していくことが『豊かな人生』、『地に足のついた生き方』への第一歩と言えます。
まもなく大学を休みがちになり、専門学校での勉強も手に付かなくなってきました。一応『学生』という身分になんとか気持ちが支えられていましたが、国家資格の受験勉強に身が入らない悶々とした葛藤をいつも抱えていました。そのような中途半端な状態が4年程すぎた頃、大学に通う事も、専門学校で勉強する事も完全に出来なくなってしまいました。そのような『出来ない自分』と向き合う事が出来ればいいのですが、この頃はそのような知識も、またそのような心の強さもなくただ、ただ、この状況から逃げだしたい思いだけでした。中学生の頃の『不登校』の記憶が呼び起こされ、なんとも言えない『生き苦しさ』を感じていました。そして私は、この後27歳で山形県に移住する事となるのです。

なぜ、山形県なのか?私はキリスト教の教会(Y教会)の寮においていただくこととなったのです。実はこのY教会が、日本でも有数の教会で、主任牧師(T牧師)は知る人ぞ知る方なのですが、ここではあえてお名前ひかえさせていただきます。いずれ公表できればと思っています。このT牧師、カウンセラーであり、実業家あり、講演家であり、伝道者でもある先生との出会いが、私の人生を大きく変えました。

私の母は、私が5歳の頃からクリスチャンでした。しかし私自身は『神』、『キリスト教』を否定しておりました。『神なんかいない!神がいるならなぜ自分だけがこんなに苦しまなければならないのか?』と思っていました。しかし母が地元(兵庫県)の教会に通うかたわらに、T牧師のメッセージテープを良く聞いていたのですが、そのテープの内容が非常に面白く、聞きやすく、また私の心を慰めてくれました。いつしか私は『この牧師に会ってみたい』と思うようになっていました。『自分は神はいないと思う。神など存在するわけがないと思う。でも、この人には会ってみたいなぁ・・・』といった心境でした。そんな事を思っていたころ、私は、国家資格の受験勉強に疲れ切って何も出来なくなったのです。『うつ病』とまではいきませんでしたが、完全に『うつ状態』でした。何もできない。動けない。どうせここにいても何も出来ないのだから、気分転換でもするために(現実逃避?!)山形県まで行ってみようと思ったのがきっかけでした。
《人生修業期Ⅰ》
平成12年10月、27歳で私は、生まれて初めて東北の地、山形県を訪れました。10月であるにも関わらず『寒い』と感じたのが最初の印象です。
初めて入った教会は何とも言えない不思議な感覚でした。『あったかい』空気を感じました。そしてそのまま私は教会の寮においていただく事となりました。まさかこの時は10年も寮で生活するとは思いもしませんでした・・・。
当時寮生は私を含めて男性8名でした。牧師の修行中の方、寮から働きに行っている地元の高校の先生、うつ病の方、神経症の方、現在不登校真っ只中の方などでした。寮での生活は、私にとってとても楽しいものでした。兄弟がいなかったので寝食を共にする皆が兄弟のようでした。面白おかしく、時には喧嘩もしました。泣く事もたくさんありました。

寮では、たくさんの『励まし』を受けました。入寮当時、私が一番年下だった事もありみなさんとてもかわいがってくださいました。いつも、いつも、毎日、毎日、私は褒められ続けました。『潤君は素晴らしい!潤君は素敵だ!潤君は大物だ・・・』今、このように活字として皆さまがお読みになると、少し滑稽にうつるかもしれません。違和感があることと思います。なぜなら、世の中でそのように他人から言っていただくことは、ほぼ皆無だからです。特に日本人は人を『褒める』ということが不得手です。言葉上も『うちの愚妻が・・・』等と言いますし、何か人様に差し上げる時なども『つまらないものですが…』などと言います。謙遜な国民とも言えますが、いずれにしましても、他人も自分も『褒められない』国民です。褒められ慣れていないので、人から褒めていただくと、どうしようもない『違和感』を感じるものです。 当初、私も非常にとまどいました。違和感を感じますし、恥かしいような、何かくすぐったいような感じでした。しかし、来る日も、来る日も『潤君は素晴らしいね…』と聞いていますと、まんざらでもなくなってくるものです。良い意味で『洗脳』と言いましょうか、『セルフイメージ』が上がるものです。余談ですが、世の中では、なかなか、他人は褒めてくれませんので、『本気』でなくてもかまわないので、就寝前にでも皆さまもご自分自身に『○○君は素晴らしい!○○ちゃんは素晴らしい!・・・』と10回ほど毎晩言ってみてください。必ず何か変わります。ぜひ、なさってみて下さい。

この他にも、寮ではたくさんの恵みをいただきました。中でもやはり同じ悩み(引きこもり、不登校、心の病)を持った方々、またそれらをすでに『宝』に変えておられる方々と、いつでもお話しができたという事は非常に大きな恵みでした。食事をしながら、時には共にお風呂で、就寝前など、時間、場所を選ばず、寝食を共にして話すのです。 そこには、今まで私が受けたどの『カウンセラー』からも得られなかった『共感』、『安心感』というものがありました。同じ悩みを持った方々に聞いていただいた時に、どのようなアドバイスをいただくよりも、ただ、だまって聞いていただいただけで、『僕の気持ちを解ってもらえた・・・』という気持ちになります。そこには言葉ではない、正に『存在が、存在を受け入れる』といった世界があるのです。

10年も寮にいますと、様々な方が来られます。明日にでも死んでしまうんじゃないだろうかというような重度のうつ病の方や、引きこもりの方。同性愛者、不登校、出社拒否、視線恐怖症、強迫神経症など数え上げればキリがありません。このように、常に10人前後の方々と、多い時には20人近くの方々と、しかもメンバーが入れ替わり立ち替わる中で、多くの『心の問題』を持った方々と『寝食』をも共にするという経験をさせていただいたという事は、私にとって大きな『財産』となりました。書物で読む『心の世界』、学者が研究した『心の世界』からは得られない『実体あふれる』経験でした。そのような中で、私自身がたくさんの方々と接し、話して、感じた事は、『自分だけじゃないんだなぁ』ということでした。ほんとうに、たくさんの方々がそれぞれの『苦しみ』を抱えておられます。私だけがなぜこんなに『生き苦しい』のかと思っていましたが、私以上に苦しんでおられる方は山ほどおられます。そのような多くの方々と、話し、関わる事で私の『視野』が広がると同時に心にも『広がり』が出てきたように思います。また、私の話しを聞いていただき、共感していただくと同時に、私自身もお話しを聞かせていただき、共感させていただくことで少しずつ、少しずつ、自分自身が『消してしまいたい』と思っていた『過去』を『宝』に変えていくことができたと思います。自分の『不登校』、『引きこもり』の経験から、『人を励ますことが出来るんだ』と知ったのです。
また、T牧師は『自己啓発セミナー』でも有名なので、いわゆる『成功者』、『経営者』、『お金持ち』の方々もたくさん来られます。そのような方々と接する機会、話す機会を得られました事も、大変大きな『財産』です。そして、そのように一般に『成功者』と言われる方々も皆、いろいろと『問題』を抱えておられる事がわかりました。問題があったからこそ『頑張れた人』。問題があったからこそ『成功した人』。また、問題に『飲み込まれてしまった』から心の病になってしまった人。いや誤解を恐れずに言いますと、表向き『成功』した人も、また『失敗』した人も、それはあくまで結果であって、人はみんな『心病んでいるんだな』と思わされました。世の中の状況、情勢、自分を取り巻く環境などのほんの些細な事で、現れる結果がたまたま世の中の動向と一致していればそれは『成功』と言われ、一致していなければそれは『不成功』と言われるだけなのだと感じました。
みな自分の事を否定しています。『私はこの世でかけがえない素晴らしい存在である』などとは誰も思っていません。いつもいつも反省し、自分を責めて(自分を虐待して)、もっとがんばるのです。がんばって、がんばって力尽きる人。がんばって、がんばって子どもにも『頑張り』を強要して子どもを病ませる人、部下を病ませる人、パートナーを病ませる人・・・。もちろん時にはがんばる事が必要です。自分が頑張らなければ、誰も助けてはくれません。世の中は、あくまで競争社会です。きれいごとでは世の中を渡ってはいけません。ただ、少し立ち止まって『自分自身』にOKをだしてあげると、人生は大きく変わります。自分のすべてを、自分で『認めてあげる』とそこからすべてが『良き方向』に動きだします。人生とは『必ず、良くなるようになっている』のです。

《人生修業期Ⅱ》
10年間で多くの貴重な経験と、出会いをさせていただきました。たくさんの逸話の中でこれだけはどうしても語っておきたい出会いがあります。それは、現在もアメリカ、ロスアンジェルスで貿易の会社を経営されながら、飲食業も手掛けておられるH氏との出会いです。H氏は大手商社で大活躍され、一財産を築かれた後、40代で退職されロスで会社を興された方です。ご自分の息子さんの事でT牧師にご相談されるようになり、Y教会にお越しになるようになった事がご縁で、平成16年の2月に初めて私もお話しをさせていただけることとなりました。
H氏はご自分の『自叙伝』も出版されていますが、そのお話を聞くだけでとても興奮させられます。世界をまたにかけるビジネスマンで、外国人も相手にされるわけですので、頭の切れ味もするどく、多くの事を学ばせて頂きました。このH氏がある時私に声をかけて下さいました。『アメリカに来てみないか?』ということでした。私はびっくりしました。アメリカに行ける等とは考えた事もなかったからでした。しかし、H氏から学ぶ事は多かったので、すぐにアメリカ行きを決意しました。
成功しておられるH氏の元で学べる事に、多くの方から『良かったね』と声をかけていただき、たくさんの方に見送られて自分が何者かにでもなったかのようにして、意気揚々と乗り込んだアメリカ、ロスアンジェルスでした。しかし、結果は散々でした。
H氏はすでに成功しておられたので、時々日本に来ては、私の様な若者に声をかけてチャンスをくださるので、多くの日本からの若者がH氏の元に集まっていました。当時、ロスアンジェルスに8店舗の飲食店を経営しておられ、そのすべての店舗にはマネージャーと呼ばれる店長が配置されていたのですが、全員20代後半から30代前半でした。当時私は31歳でした。皆、元気の良い優秀な方々で私は圧倒されました。英語も話せない、知り合いもいない、ハードな肉体労働に、3ヶ月後には山形に逃げ帰ってきました。しかし、派手に見送っていただいただけに、帰って来てからも恥かしくて、とてもそのような自分を受け入れる事が出来ませんでした。悶々と過ごす中、5ヶ月後にもう一度H氏にチャンスをいただけるように懇願しました。快く受け入れて下さり、今度はハワイ店に行かせていただく事となりました。
ハワイ店は、ロスで数店舗の店長を経験した、Uさんが新しく立ち上げたばかりのお店でした。『日本そば』がメインで、天ぷらや、お刺身がセットで付くというお店でした。このUさんとの出会いも私にとっては強烈な、忘れる事の出来ない出会いでした。ハワイ店は男性が私とUさんの二人だけで、もう一人女性のフロア担当を含めて3人のお店でした。朝から晩までキッチンではUさんと二人で、寝るのはUさんの八畳一間くらいのアパートです。行き帰りの通勤もUさんの車に乗せていただきます。つまり、朝から晩まで、通勤も、さらには寝る時も含めて24時間ずっとUさんとすごす訳です。もちろん夫婦でもない、30代になったばかりの男性二人が24時間ずっと一緒に暮らすのです。ある種、異常な世界ではないでしょうか。また、仕事上でのUさんはとても厳しい方で、朝から晩まで怒鳴られっぱなしでした。あまりに激しい口調に私も言いかえした所、ビール瓶が飛んできました。仕事も大変ハードでしたので、何か二人で異国に戦争にでもきているかのような錯覚に囚われることもありました。Uさんもたった一人でハワイ店を任され必死であったと思います。私も、背水の陣で臨んだ二度目のチャンスですから必死です。お互い人生をかけて必死で生きていましたので、筆舌には語り尽くせぬ『熱い』毎日でした。今にして思えば、この事も、私の人生を変えた大変大きな経験となっています。
3ヶ月間ハワイ店に勤務した後、再度ロスに行く事となりました。カルチャーショックに尻尾を巻いて逃げだしてから約1年後のロスアンジェルスでした。2度目のロスはそれなりに楽しく過ごす事ができました。やはりハワイ店での濃い3ヶ月が『宝』となって、私自身が一皮むけたのだと思います。そしてその後いよいよ、さらに大きなチャンスをH氏よりいただく事となりました。

山形にH氏がお店をだしてくださるというのです。私が『店主』として。『店長』ではなく、『店主』として・・・。H氏の100%出資で、私が『経営者』ということになります。アメリカンドリームといいますか、夢のような世界でした。どこかの本で読んだような、出来ごとでした。
事の経緯は、もちろん私が『希望』したからでした。世の中の事が何もわかっていない、もちろん『経営』の事などわかるはずもない『子供』であったからこそ言えたのだと思います。ただ、巷に溢れる『自己啓発書』、『成功体験記』の様な物を読んで、自分もそうなったかのように『錯覚』していたのです。『山形で蕎麦屋をやりたいです』。今振り返りますと、よくこのような事を簡単に言えたものだと、自分自身、恥かしくなります。しかし、H氏は、そのような『子供』の私の気持ちをしっかりと受け止めてくださったのです。一笑に付す事もなく真摯に受け止めて下さいました。まもなく、『山形に蕎麦屋を出す』という話は現実化します。

平成18年、2月、山形で『蕎麦屋』をオープンさせていただきました。店舗物件探し、お店のレイアウト、内装工事、調理機材の準備、食材仕入れ先の開拓、メニュー作成、麺業組合挨拶回りなどなど『新規立ち上げ』のすべてに関わる事ができました。
華々しくお店をオープンさせた所までは良かったのですが、『蕎麦の本場』山形でお店を繁盛させるのは並大抵の事ではありません。歩いて2、3分の所には地元で有名なお蕎麦屋さんがたくさんあるのです。お客が来ないからといって食材を仕入れないわけにはいきません。来るか来ないかわからなくても準備しておくのが当然です。しかし現実には、仕入れては、捨てる、また仕入れては、捨てる・・・の繰り返しで、赤字続き。雪だるま式に借金が増えていきました。眠れない日々が続くようになりました。お店が潰れる夢を何度も見ては飛び起きるといった感じでした。アメリカのH氏からは毎日のように、メールで『指令』が来ます。しかし、眠れない、客が来ない、借金だけが増えるという状況の中で、『指令』をこなせる精神状態ではありませんでした。半年も経ちますと『どうすれば辞められる?なぜこんな事をはじめたんだ?すべて捨てて逃げようか?今、辞めたら借金はどうやって返す?・・・』そのような事ばかり考えるようになっていました。しかし逃げた所で、母と伯父が連帯保証人になってくれていましたので、すべての負担を母や叔父に負っていただくことになります。それはあまりに申し訳ない・・・。首をくくる勇気もない。完全にノイローゼ状態でした。しかし、考えに考え、葛藤に葛藤を重ね、気力も体力も朽ち果てて、平成19年1月にH氏に『メール』を出しました。『申し訳ございません。もう出来ません。』オープンから約1年後でした。
それまで『売り上げは?こんな状態でどうやって続ける?寝てる場合じゃないぞ!あれは?これはどうなってる?お前は甘い!・・・』と毎日のようにメールと国際電話で、『カツ』を入れて下さっていたH氏でしたが、この時は何もおっしゃいませんでした。その後2月に残務処理を含めて、H氏が山形までお越しくださいました。久しぶりに顔を合わせてお話ししました。H氏は私を咎めることなく『良く頑張ったな』と言って下さいました。私は泣かずにはおれませんでした。
H氏とお話しをさせていただくようになってから丸3年でした。とても中身の濃い3年でした。たった3年で、1度も飛行機に乗った事がなかった者が、ロス、ハワイを含めて日本から合計5往復させていただきました。蕎麦屋の立ち上げから、倒産まで経験させていただきました。人が長い時間かけて、一生に一度経験するかしないかのような出来ごとを一気に経験させていただきました。私は今現在もH氏にあわせる顔がないのですが、この方なしには今の私はありえません。誠に勝手な思いですが、いつかもう一度お会いできればと願っています。

《近年》
 その後、私は子ども達に水泳の指導をする、スイミングスクールのコーチの仕事に出会いました。2歳くらいの子どもから、高校生までが対象の仕事ですが、正に私にとっては『天職』とも思える仕事でした。『激しい3年間』の後でしたので、『子供たちの笑顔』に心癒されました。私の中の『もう一人の自分』が子ども達との触れ合いに喜んでいるのを感じました。きっと、あの『激しい3年間』がなければ、この『内なるもう一人の自分』と出会う事はなかったと思います。  『死んでお詫びしよう』とまで考えて、あまりにも不甲斐ない自分と向き合った3年間があったからこそ、本当の意味で『地に足を付けて』歩きはじめる事が出来たような気がします。

 スイミングスクールのコーチとして、延べ5000人の子どもたち、その親御さん達と関わりを持たせていただきました。また、地域の小学校にも水泳の指導員として関わりを持たせていただきました。
 そのような中で、カウンセリング、コーチング、心の世界、を学び続け、現在の『話し相手.jp』の前身として、不登校児や、引きこもり、ニートなどの問題に向き合い、個人的にカウンセリングをさせていただいておりました。

 私は自分が『不登校』『引きこもり』を経験したことを長い間、『受け止める』事が出来ませんでした。常に『現在の自分を否定』して、何か『別の自分』になろうともがいていたように思います。13歳で『不登校』を経験してから、『蕎麦屋』を倒産させるまで、ずっともがいていたように感じます。しかし、『見たくない自分』から逃げられずに、見続けるしかない状況に追い込まれた所から、人生が『良き方向』に動き出したように思います。
 
《現在》
 現在、私は、多くの方々に助けていただき、支えていただきながら、出身地の滋賀県を中心に、毎月、神戸、大阪、京都、名古屋、東京を回らせていただきながら、日々勉強をさせていただいております。

トータルカウンセリングスクール主宰、田中信生先生を良きメンター、良き師匠として仰ぎながら、弟子入りさせていただきまして、日夜、ご指導と励ましをいただいております。
夢は大きく、日本一の心理カウンセラーとなるべく切磋琢磨しております。

人は『話す事』で必ず変わります。話す事で、自分自身が閉ざしていた『内なるもう一人の自分』に必ず出会います。その『内なるもう一人の自分』、『インナーチャイルド』と出会い、触れて、正しく接していくことで、人は『本当の成長』、『心の成長』をしていきます。
『話し』を正しく聴いてもらうという体験は、『内なるもう一人の自分』と正しく接するために欠かせない体験となるのです。

お気軽に、お電話、お問い合わせ、ご質問をいただけたらと思っております。  皆様との良き出会いを期待しつつ、心よりお待ちしております。

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